情報の錯綜感と混乱も広がってますよね。
新型コロナウイルス騒動も長く続いてますから。
不安感のつのりかたも尋常ではないですね。
妖怪に頼ってみたりってのまでありますな。
https://togetter.com/li/1477527
上URL様にあるアマビエという妖怪が疫病を退けたというのですな。
私はこういう、人の不安感を和らげるたぐいの無害なものは良いと思う派です。
https://finders.me/articles.php?id=1753
上URL様は『このせきはうつりませんって』意思表示するための缶バッチが売れているってものですが、このような不安感が必要以上に蔓延しきっている状況はいかがなものかと思ったりはしますね。
今は良くなって薬もやめましたが、以前に子供が喘息だったりしたもので、花粉症や喘息なんかで苦しんでいる人たちにまで(容易に区別はつきにくいでしょうが)、負担が及ぶのは嫌ですね。苦しんでいる人に『大丈夫ですか?』ってくらいの言葉が自然に出ない社会の状態は嫌だなと思ってしまいますな。
これも、自分のいる県に感染した人がいないと報道されているゆえの危機感の無さなのかもですが。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200301-00000005-minkei-l02
うちの県で感染した人がいない、過疎ってるのを逆手にとって新型コロナウイルスから疎開しませんかってペンションがあったり。
上URL様を見るかぎり、料金設定も良心的に思えますし、不安を逆手に取っているところが少し反感を買いかねないとはいえ、ニーズが有るのならばおかしなあおり方をしているわけでもないですし許容範囲内ではとおもったりします。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/view/
上URLの
(1)換気の悪い密閉空間
(2)多くの人が密集
(3)近距離での会話や発声
という条件を理屈としてしっかりおさえておけば、振り回されることも少なくなるのかなと思ったりしました。
3月も半ばを過ぎての雪
3月も半ばを過ぎて、桜の開花予想もちらほらだった近頃。
なんじゃ!この雪は?
しまい込んだ冬靴をまたひっぱり出しました。
ちょっとの横着で転んでもつまらんですからね。
今年の冬は杖を使う事も転ぶこともなく過ごせて安心していたところだったので、あと少し本格的な春まで気を抜かないようにしないとですな。
ついでに言えば、この雪の前日はポカポカの陽気だったので、比較的薄手のコートを着て家族で外出して「暖かくなったね~」などと話していたところでした。日曜春らしい陽気、月曜冷え込み、火曜その中間の気候と寒暖差がえげつないです。
特に朝が苦手な長女などは朝起きるのがきつそうでした。
子供たちは気を付けさせないと体調を崩しかねないので当分は気を抜けません。
ちなみにデイケア勤務の私ですが、利用者の高齢の方々は「3月になってもまだ、何回かは雪降るよ、コレ、今年は少なかったしね」と話してました。
経験則ってすごいって思いましたね。
雪が降るのも悪い事ばかりでもなく。
うちの地元は桜の名所なんですが、今年の桜の開花予想は4月の半ばになっていてこの調子では5月の連休の頃には花が残っていないな~と思っていました。
ちなみに開花時期を調整するために桜の木の根元に高所からわざわざ運んだ雪をかけたりした事も有るようでした。
今年に関しては、桜の開花時期うんぬん以前に、オリンピックすらどうなるんだろうという現状から考えれば5月の連休の人出はみこめないし、みこむべきでもない仕方ないと思いますがね。
毎年大型連休と桜の開花時期が重なるかどうかの話をうちの地元では良くするのですが、さすがに今年はみんなあまり話題にもならない感じでした。
システム的な不備のしわ寄せが個人にかかるのはおかしいと思うって話でした
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3928025.html
上URL様は、新型コロナウイルス騒動で労働時間が減少してしまい子育て世代の多くが収入減少している事に対して、現在ある児童手当に上乗せする形で手当て上乗せを求める署名を行っているって記事なんですが。
これについては何とか決定してくれればいいなと思っています。
日本で新型コロナウイルスの感染者数が少ないのも、検査数自体が少ないからってのは
絶対に有りますよね。症状がハッキリ出ていない潜伏期間でも感染するのがこわいって情報は入ってたのだから、オリンピックのために大規模な設備投資をしてしまったのは理解できるにしても、開催直前まで感染者数は少ないと公的発表を少なくしておいて(検査出来ない出来ないというのが、どうにも不思議で仕方がない)、こんな危険で信用できない国では開催できないとなるよりは早めにできるかぎり多くの検査ができるように努めて感染の実態割り出せば手の打ちようもより具体的になるでしょうにと思ったりしちゃいます。
不安はあおるが、個人の努力に期待では救われませんよ。
はじめの児童手当て上乗せのけんですが、少子化を問題に思うなら、個人に責任を転嫁する前に子育て出来る、しやすいように現状のシステム的な不備を修正していただきたいですよね。(子供何人産むべしってな事言ってバッシングされてた政治屋さんがいましたよね、そう思うなら子供がいても働きやすいようにとか、風邪ひいても仕事休めるようにとか頑張って考えてシステム整備の為に動いとくれって思っちゃいますね)
これは他にも環境問題や地域格差なんかでも常々思う事だったりするのですが、
国、地方自治体、企業、個人
大規模な集団の方が大きな力を持つしトップは権力を持って当たり前なのですから。
GDPののびが思うようにならないから、個人の頑張りに期待と丸投げ式に副業推進とか。
いや副業推進自体は、良いんだが、当然何かが変わればついて行くのに過渡期の人は試行錯誤するもの、問題というかお願いしたいのは子供たちの世代にしっかり新しい教育をって事なんですよね。
ゴミ問題なんかはもっとひどいですやね『私たちにも出来る事が有るはず』的なスローガンをかかげて一人一人が頑張るのは良い事ではあるが解決には近づかない。
下記事でも書きましたが、温室効果ガスの70%は100社の企業が排出した物のようですなら、国々が協力してそれらの企業に規制をかける事が大事なのは明白なはず。
小学生ですら過ぎた資本主義が環境問題の根本原因と気付いているのですから、お偉い政治屋さんが気が付いていないはずはない、その他多くの要因との兼ね合いから負担が個人に回ってきている構図は何なんでしょうね~?
https://blog.goo.ne.jp/japan0125/e/0dbf3c7e5c80cd06144e34d2351b05d8
上URL様は日本は政治も経済も三流になってしまったという記事ですが、
記事の中に有った下の一文が良いなと思いましてね。
一番いけないのは、「政治がひどい」と言い、政治に絶望し、
政治に無関心になってしまうことです。ってものですが。
で、最初の署名活動のようなものには積極的に参加していければなと思う次第でありました。
老いも若きもみんなが選挙に興味を持って投票に行って、必要と思うものには署名活動なんかにも参加して、積極的に意思表示したなら、現状のシステム的な不備も少しずつでも変わってくれるのかなと思ってみたり。
新環境への不安感から子供のネットゲーム時間が長時間になっている話でした
今回の新型コロナウイルス騒動での小学校のお休み、ちなみに我が家は小6のもうすぐ卒業の子がいますが、どうやらこのまま卒業式は卒業生と父兄と先生だけでの時短で行なう事になりそうです。
せっかくの子供の卒業式が簡素化して行われることはさみしいようにも思ったりもしますが、今回ばかりは事情が事情だけに仕方がないですね。卒業式なんて人が密集した状況などは今回の場合、明らかに危険極まりないですから避けられるリスクは回避するように努めるのが賢明というものです。
さて、出校停止に加えてそのまま春休みに突入する流れになれば、区切りがハッキリ付けられにくいのも気になるところでありますが。
親としては一番気になるのは、出校停止からそのまま春休み突入な感じで1カ月程にもなるような長期の、しかもきちんとした課題もない状態(一応中学校の入学説明の時にもらった小学での学習内容まとめたつづりは有って頑張ってるが)。で、ちなみに控えるようには言っていてもネットゲームの時間が普段よりも長くなりがちです、だらだらした生活からの中学校入学になって、いろいろ新しく変化する環境にうまく新生活に適応できるかってところが心配事項であったり。
対策としては就寝、起床時間は徹底して学校に行っている時と同じく維持して生活リズムだけはしっかり保つようにしています。
我が家の場合中学になるにあたって勉強に集中できるよう部屋を分けて最近一人の部屋で寝起きするようになったのもあり特に気を使ってた部分であったり。
普段よりネットゲームの時間が長くなりがちなのも、単に時間を持て余してというより、新しく大きく変化する知らない環境に対しての不安が有る中、同じく中学に進学する友達と話す事もできずに家にいないといけないから、ネットゲームのチャット機能で友達と交流して不安をまぎらわしているようにも思えます。
そう思うとネットゲームくらい自由にどうぞと言いたいところでは有ったりもしますが、この辺、自由にさせたらさせたで際限なくいつまででも遊んでいるのでその加減の見極めが難しいです。
ちなみに上画像のゲーム機ニンテンドースイッチには保護者見守り機能、が有ってスマホと連動させる設定をしておけばゲームを何時間やったかがすぐにわかってしまいます。うちの長男は一日中ゲームをしている日があまりに続いたものだから、とうとううちの奥さんの逆鱗に触れてとり上げくらって、奥さんが仕事から帰ってからの時間限定でしかゲームが許可されなくなってしまいました。
アレコレ対策考えて、ルール決めもしっかりしていたのに、今回は不安感からと思われる感じで、約束守れず残念な感じになりました。
親としては、反抗期の気持ちを推し量る事とネットゲーム依存に至る程かの程度の見極め、難しいですね。
トイレットペーパーの盗難といなかの貧困問題
猛威を振るう新型コロナウイルス騒動のデマに基づいての品薄以前から。
私の住んでいる地域では、トイレットペーパーの盗難はやめてって張り紙をよく見かけます。
実際子供たちの夏休みラジオ体操について一緒に公園に行った際には、公園のトイレに入ってすぐに手にトイレットペーパーを複数持って出てきたおばちゃんをお見かけした事が有りました。
親の立場としては、火急の事態でトイレに入った子供たちが「紙が無い」って事になるのが容易に想定出来るので公園のトイレットペーパーを持って行くのはやめていただきたいところであったり。
スーパーやコンビニのトイレのトイレットペーパーにも側面に店名をマジックで書いてあるし。
デマでトイレットペーパーが買えないって問題も困ったものですが、トイレットペーパーを買うお金に普通に困るいなかの貧困問題にもいかがなものかと思いましてね。
就職先も高齢であったりすると限られてくるし、土地は有るから農業には手を出しやすくても元々農家でないとノウハウがないしで、どうにか良い産業になりそうなものはないものかと思ったりしちゃいます。かくいう私も体が不自由なうえ子供たちもいるのでこれは切実な問題であったりします。
嫁と仮面ライダーと梅のお花見
われながら妙なタイトルですが、端的に言えば夫婦共に変わり者なら、子供たちも多少は変わった子達になろうというものだという話なんですがね。
むかしむかしのお話です。
という程昔でもないか、私が仕事ばっかりしていた独身で五体満足だった頃の事です。
私は自覚症状が有る感じで、変わり者なんですが、うちの奥さんはさらに輪をかけて常にわたしの予想の上を行く変わり者だったりします。
私が大きな病気をして体調を崩して後遺症を抱えて体が半壊してしまったものだから、必要に迫られてすっかり今は、しっかりされておりますがね。
初デートでどこに行ったかよりも、道中の会話の方が印象に強く残っているくらいですからなかなかです。
ちなみに会話の内容は執拗にと言って差し支えないであろうレベルで、ひたすらその日の朝に観てきた仮面ライダーの話をしていました。
私が『仮面ライダーは観ていないんだ』と言うと、魅力について語りだし、最終的にはあらすじを話はじめたり、そしてこの人よほど好きなんだろうなというのはうかがい知れる熱を感じる内容だったものの、それだけにあちこち話が飛んで要領を得ず、お世辞にもうまいとは言えない説明で有ったり。
よくわからなかったまでも、さすがに熱のこもった話を1時間2時間と聞いていると気になるもので。
帰ってから調べましたさ、その時放送していた仮面ライダーは『仮面ライダーカブト』
水嶋ヒロ主演のものでした。
当時の私は仮面ライダーの知識が昭和で止まっていたので、イケメン俳優が主演していて、そこから有名になった方も多いなんてことは全く知りませんでした。
て、まぁ。自分の価値基準に照らし合わせて害がないと判断してしまうと影響は受けやすかったりもする私は以降、順調?に付き合って結婚した奥さんと一緒に子供含む一家で
仮面ライダーを観ています。
子供と一緒に観る子供番組は基本何でも好きですが仮面ライダーは観始めたら親もハマるのわかりますね。確かにおもしろい。
ちなみにその時のお出かけはどこに行ったかといいますと。
北限の梅まつりってのを見に行ったのでした。
http://www.tsugarunavi.jp/web/spot_detail.html?id=00004057
梅の花見自体がメジャーではないところに、いなかでひっそり早い時期にやっているのでおそろしく人が少なかったのを覚えていますね。
なぜか私が作っていったお弁当を食べて梅の花を見て撤収した覚えがあります。
お花見自粛ムードだからこそさびれた名所もいいかもしれませんですよ。
それから10年以上たって。
まったくかみ合っていない状態から始まったうちの夫婦ですが、いろいろあって歯車がかみ合うようになったのか、空回りっぱなしなのか。
ケースバイケースのように思いますが、後者の場合の方がいまだに多いようです。
人の気持ちを考えて共感する事と親切の押し売りは違うって話しでした
幸福度についてですが。
結論として、人のしあわせは他人には計れないし理解しきれるものでもない主観的な物なのだろうと思います。
なぜ唐突にこんな事を?と申しますと。
以前、老人保健施設で作業療法士として仕事をしていた頃の事、実習生として来ていた学生さんに、ほとんど寝たきりの方のリハビリテーションを行った後の事質問された事が有りましてね。
リハビリテーションは具体的には、
自力で座った姿勢を保持する事が難しい場合座る訓練、車いすに移乗する訓練、立位を保持する訓練などを行ったりするのですが、当然ながら寝て過ごす時間が長くなると視覚、聴覚からの刺激の入力も少なくなるわけで、居室で臥床して過ごす時間が長期になればなるほど認知機能的にも低下してしまう事も多かったりします。
場合によっては意思疎通がままならなくなる事も有ったり。
そうならないためにも、できる限り早期にリハビリテーションを提供し予防に努める事が大事と考えたりするわけですが。
少し話を戻しまして、実習生の学生さんに、『意思疎通がうまくとれない寝たきりの方っていつもどんな事を考えて過ごしているんですかね?』ときかれたわけなんですよ。
当時20代で未熟者だった事もあり、その時の私は、曖昧にしか答えてあげられませんでした。
完結していない記憶というものは残るもので、この事は何度も思い出しては考えてみていました。
40過ぎて少しこの問いに対して答えは出ないまでも、いくらかは自分なりの答えを組み立てる材料になるピースが集まったように思えましてね。
認知機能的な低下が進むと、テーブルで作業活動などをしていても、作った物品をスッと口に入れてしまう方がいたりします。
これは、ザックリ端的にだと、目で見たものを脳の後頭葉で認識して、それがどんな質感のどんな性質のどんなものなのかを過去の経験と側頭葉で照会して判断する という一連の流れどこかが滞ってうまくいっていないがゆえに周囲から見た場合に少しちぐはぐに見える行動がおこるわけですな。
ただ、このような周囲から見た場合に違和感を覚える行動も、本人さんの中では完結した納得できる行動と考えられます。
かくいく私も、頭の術後間もないせん妄状態の時には家族にいろいろすっとこどっこいな事を言ったりやったりしたみたいですからね。実感として理解出来る部分が多かったりしまったりします。
認知機能的に低下していたとしても、それがその人の人間性をそのまま表す訳ではないし、尊厳は当然保たれるべきと思います。
ついでに言えば少し違う角度から幸福度について考えれば、
人の欲なんてものには際限は無いものなのだと思います。
仮に『美味しいものが毎日食べたい』というのが幸せの条件の一つに挙げられる人がいたとして。
毎日それが続けば、以前は満足出来たものでも満たされなくなり、その要求水準は際限なく上がっていく事と思います。
贅沢の限りを尽くして暮らすより、毎食、一膳のご飯を十分に味わって感謝して食す事ができる人の方が満たされているのかもしれません。
自分の経験に置き換えるなら、走る事ができていた健康な頃、私はそれを幸福とは思っていませんでした、むしろ当然の事くらいに思っていたように思います。
これは多くのものに当てはまることで、何であれ良きにせよ悪しきにせよ人は状況に適応して慣れるものなのだと、走りたいとは思っていても走れない事を不幸とは思っていない現在の私は今考えてみたりします。
『「起こること」にはすべて意味がある』ジェームズ・アレン著(自己啓発書で有名な方のようです) 「引き寄せの法則」研究会訳 王様文庫 三笠書房出版
より下の文は引用ですが、
「信仰心、正義、知恵といった生きていくうえで必要な心の糧は努力や犠牲を払って手に入れるべきものです」
お金で買う事ができなくてもそうしたものには値段があるのです、したがって、手に入れるためには、何かを手放さなければなりません。
つまり、お金を出す代わりに利己的な心を放棄しなければいけない。
手放した利己心の分だけ、必ずそれに見合った、信仰心、正義、知恵をすみやかに受け取ることができます。
人は支払ったお金の分だけいずれ劣化する運命にある食物や衣類を受け取ることができますが、手放した利己心の分だけ、精神にとっての不滅の栄養分や保護を受け取ることができるのです。
とあります。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E8%AD%98-501099
上URL様はコトバンク五識についてですが。
等しくそうあるものでも、とらえる側がどうとらえるかによって大きく見え方は異なります。
下URL様は上のコトバンク五識URL様からのリンク唯識心理思想についてですが。
https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%BF%83%E7%90%86%E6%80%9D%E6%83%B3-2099873
私の祖母が呼吸器を付けて長期入院していた時、様々なものを制限され不自由を強いられる生活の中で、祖母がこれまで経験してきた経験や知識、情報の種子はどのような芽を出してどう成長をしているのだろうか?生の終わりの時間を病院でではあれど静かに過ごした中で、きっと何らかの悟りのようなものは得られたのではないかと思ったりしました。
認知機能的に低下していたとしても、それがその人の人間性をそのまま損なうものではないですし、その人が積み上げてきた人生によっては、ただ他者に伝える良い術がないだけでその精神は素晴らしい悟りの域に達しているのかもしれませんよね。
くどくなりましたが、どのような状態にある人も、その人自身の幸福度と。
その人を良く知る親しい人がその人の幸福度に思いをはせた場合のその程度と。
客観的に他人から見た場合のその人の幸福度には大きな開きがあるように思います。
人の幸福度は他人にはどうやっても解らない、いっそ極端に言うなら「歩けないからかわいそう」だの「認知機能が低下していてかわいそう」だのという自分の価値基準で人を図る事は不遜で失礼ともいえる行為かと。ただ、利用者さんや患者さんの気持ちに寄り添おうという気持ちは絶対に大事。
価値基準をどこに置くかによって大きく差が出る、主観による部分が大きいものだけに、本人ではない限り推測しかできない以上無責任な事は言えない、自分の主観に基づいた親切の押し売りにならないように気をつけるのが、利用者さんや患者さんの気持ちに寄り添うにあたっては大事。
そのうえで専門職は今やるべき、可能な事に全力で取り組むしかない。可能な事はしっかりリハビリテーション対象者の身体機能と認知機能を見極めたうえで、どんなリハビリテーションを提供すれば生活に反映した良いものが提供できるか考えて必要な事をきちんと提供するくらいのものでしかない。
近頃、施設や病院に勤務する職員の職業倫理はいったいどうなった?と思わせる事件の報道がたびたびみられるもので、心についてや幸福度についてなど考えてみる事にも意味は有るのかもしれないと思いましてね。
こんな事を長々と書いてみた次第でした。
長文になってしまい失礼しました。