地元なので弘前城のついて(夏休みに長男と一緒に調べたまとめですが)
今年のうちの長男の夏休みの自由研究ですが、自由とは名ばかりに、地元に関連したものでないといかんという縛りが有ったらしく、ホホホウ『親が手伝うな』とか、『ネット検索禁止』というくくりはないのだねとばかりにちょいと気合入れて一緒に調べてみました。
いやあ、歴史関係がテーマはいかん。結構ビックリするようなくらいの量になる。
結局は調べた中から派生した感じで地元の町の名前の由来色々的なかわいい感じに収まったうちの長男の今年の自由研究でしたが。
それではたくさん調べて集めた情報がもったいない。(小6がひく量の資料を集めた私がわるいのですがね)
なんとなく不消化に終わったので、私が簡単にではありますがまとめて書いておこうと思いましてね。
まず弘前城はお城としては小さいです。
お城の種類としては独立式層塔型天守というものになるようですね。(下URL様参照)
https://shirobito.jp/article/531
ところが弘前城の場合ただ単に規模に小さいお城という訳でもない様で、城下町に城の機能を分散させていたようなのです。
上画像は弘前城から徒歩15分程の距離にある最勝院の五重塔ですがこれが上URL様参照によるところの複合天守などにおける物見塔の役割も果たしていたようなのです。
機能を分散して替えが利くようにというのは良いですよね。
さらに禅林街のように宿泊可能なお寺をお城の近隣にまとめて配置したり、五十石町のような武士の居住区角をお堀のすぐ外側の門の外に配置するなど町単位で有事に備えられるように設計されていたようですね。
さらには内堀、外堀の他にさらに外、城下町全体に複合式天守の役割を持たせると考えると岩木川やその支流も堀の役割を果たすものとして想定されていたようなのです。
城下町のどの区画にどんな職業の人達にまとまって住んでもらうかも決めて、町名を決めて区分割りしたらしいのです。
何のためにそんな大規模な事を考えていたのか?ですが
関が原では津軽藩は2000にて家康の東軍に参加していて。
石田三成の三女が津軽為信の三男 津軽信枚(後を継いでいる)の正室になっているのですな。
石田三成と縁が深いが家康の東軍に参加しているってなんだか地元の殿様ながら保険をかけるのがうまいように思えてしまったり。
江戸幕府としては、伊達、佐竹、南部をけん制するために大規模な城を作る許可を与えたって事みたいです。←そんなに信用はされてなかったからお城は小さいものにしておいて城下町に防衛機能を持たせたのではとも思ってしまう。
それにこの豪雪地帯に複合天守のような大規模で維持費のかかるものを作るのは実用的じゃないですしね、お城自体は独立式天守の構造にして。
城下町に複合式天守の機能を持たせれば維持費もおさえられて財政にも優しかったかと思ったり。
ちなみに、いろいろなキーワードであちこちのサイトを調べた結果。
史実としての部分は当然すべてのサイト、ブログで共通なのですがそれぞれ書かれる方の視点によって内容の異なる部分については、だいたい大筋としてはこうなのかなとまとめさせていただいて書いておりましたので読みにくいかと思いますが申しわけありません。