虐待の連鎖を断ち切れるかは人格形成に関わった人たちとの縁によるところが大きいのかと思ったり。
虐待についての報道が一時期、毎日のようにされていましたが。
子供の頃、わりと日常的に親に殴る蹴る+言葉の暴力を日常的に受けてきた身としては、報道を観る度に心臓を締め付けられるような辛さを覚えます。
で、端的に言いたいのは、虐待している人は自分は正しい事をしていると信じていますよおそらく。
私が子供の頃の事でもしっかり覚えている記憶として、父親が私を殴る蹴るしつつ言った言葉があるのですが、
『自分が作ったものを自分が壊して何が悪い?』
この言葉ばっかりはずっと抜けないトゲとして心に刺さって痛み続けるんだろうな~と思ったり。
自分の子供は自分の所有物品といった感覚で接しているのであれば、倫理観の入り込む余地すらないですね。
その親、個人だけの価値基準で行動して子供の行動が意にそぐわない場合は制裁を加えるって構図の完成です。
このタイプの独善に染まり切った親は更生の余地がないと思うので、距離をとる、親と子供を離す以外にはないようにも思えます。
上記事は家族の財布から常習的に金銭を盗るうちの父親について書いたものですが、家族全員から距離をとられて非常に残念な事になっていたり。
日々むなしさの中生きている事と思われますが、あれに同情の余地が有るとは思えません。
で、虐待の連鎖なんて言葉が有りますが。
私自身、反抗期の子供に接している中で、こんな場合私なら容赦なく親に殴る蹴るされてたな~と思う事は多いです。
そしてこの考え自体が、普通に育てられたなら発想そのものが生じないんだろうなという事も理解しています。
なので一度でも子供に手をあげたらおしまいだと、子供の頃親に力で従わせらてきた身としては、その安易な手段が短期的になら手間のかからない方法なのだろうという事が実感として理解できるので、自分ではそんな手段には頼りたくないと自分をいましめています。
そして、一応とはいえ、これができているのは、親以外の私の人格形成に関わった多くの人に感謝ですね。
関わってきた人たちとの縁がなければ、もしかしたら私も子供を虐待するタイプの親になっていたのかなと思ったりします。
長々書いてしまいましたが、叩かれて育てられた人は、親になったら叩いて育てる事が楽だって事に対して叩かれたら嫌だって認識と同時に、叩いた方が手間はないって両方の相反する認識がすりこまれていると思うっていう。あくまで私個人の主観でした。